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こだわり

宮本武蔵師が創始の「二天一流」について:巌流島決斗後の『武蔵師の足跡』

  • 末次通訳事務所 <兵法・英語二刀一流>
  • at 2015/1/18 09:15:42
 

宮本武蔵師が創始の「二天一流」について

ようやく、宮本武蔵師についての、<<巌流島決斗以後の
正しい、史実>>表記が WIKIPediaで、なされました:
↓↓↓↓↓↓↓↓

...

「二天流」は、宮本武蔵によって開かれた流派である。
武蔵は若い頃から、親戚の小原信利の墓がある豊前国田川郡幸崎村
(現在の福岡県田川郡福智町神崎の常立寺付近)をたびたび訪れ、
そこで道場を開き藩士らに剣術を指導した。

また、細川家が豊前、豊後に移封されてからは、
父の新免無二も松井佐渡守(のちの松井興長)の武芸指南として
豊後木付藩にとどまっていた[4]。その後武蔵は細川家の剣術指南を
務めていた佐々木小次郎と巌流島で決闘を行う事となる。

その後、養子の宮本伊織が仕官していた小笠原家が小倉藩に移封された事で
武蔵は再び小倉を訪れる事となる。武蔵は細川家の招きに応じて熊本に
向かうまでの8年間を小倉で過ごし、その間に島原の乱に参加した事で
実戦経験を積み重ねたり、自己の兵法を「兵法書付」にまとめるなど、
兵法の探求を続けた[4]。こうした中で、小倉の地に根付いていったのが
二天流である
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この記述はとても嬉しいものです。

これまでの歴史研究家など、特に、よくマスメディアに登場する御仁らは、
巌流島の決闘以後の武蔵の足取りは空白であり、熊本で仕官するまで
30年間、行方知らず、などと述べたり、関ヶ原は西軍に加担して、などの
解説が盲目伝統的に継承されてきましたが、かなり早くから
私は、独自の研究で、いわゆる30年の空白とされる時期の足取りを
確認しておりました。

福智町の常立寺の事も、古くから存じておりました。

情報検索の技術も進み、古文書類の研究も進んで
ようやく、ハッキリ、正しい史実が出てきましたね。

吉川英治先生の『宮本武蔵』はあくまでも小説であり、
史実ではありません。ですが、吉川先生のこの小説は、
史実と誤認識をしてしまうほどの素晴らしい内容です。


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