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大事な大事な『6月20日』の事 ご覧下さいませ!!

  • 末次通訳事務所 <兵法・英語二刀一流>
  • at 2017/8/15 20:12:10
皆さま、近況報告です=その1=: 大事な大事な【6月20日】の事に付いて

※この2ヶ月くらい、契約書の翻訳(英日・日英)が連発し
時間がなくて、書けませんでしたが、今から記します:

〜【6月20日】の事〜

皆さま各々も、この日は大事・大切!という期日があると思います

過ぎてしまいましたが、私は毎年6月20日は、自分の人生にとって
極めて大事な期日です

先ず、今を遡る事、1992年6月20日、
私はこの日付で、唱和貿易株式会社を退社致しました。

英語通訳者として独立をしようと思って・・・

私は1985年に佛教大学に入り、
5年かけて、1990年に同大学卒業。
一年休学したので、5年間行きました事になります。
休学⇒復学の当時は、かなり辛く感じておりましたが、
休学により、【実用英語の道】を志す事が出来まして、
京産大の梅田先生に出会い、うちの大学での先生の授業を通して
大いに実用英語を鍛えてもらいました。
その後、英語が得意であり、ご縁があり、
1990年に唱和貿易株式会社に入社致しました。

私の配属は、第3事業部企画開発部でした。
最初は、S課長代理の直属で色々と指導を受けました。
私は、風変わりでありましたので、S重役やS課長代理をはじめ
複数の上司の方々や先輩社員の皆さま、同期の方々にご迷惑をお掛けした事と存じます

で、1990年の10月に東京事務所に移動となり、当時のK係長の下で
トグラー(Toggler)/建築金具やパーマグラス(Perma Glass/自動車向けコーティング剤)の
輸入や国内販売を担当いたしました。
その他、海外市場や海外で開発された画期的な商材の日本への輸入を
企画して、その商品を柱的な商材に育成するという取り組みをもしておりました。
ですが、当時の私は、まだ物事を知らず、気持ちがせってしまいまして
わずか2年数か月で、折角の商社とのご縁をつぶし、退社しました。
それが、1992年6月20日の事です。
2年2か月の勤務の間は、私にはその3倍の時間の長さに感じられました。
今なら、そんなことはないのですけども、社会人となって、最初の数年の日々は
一日がとても長いように感じられました。

黙って退社をし、両親にも前もって言っていませんでしたので、
退社を知った両親は、殊の外、嘆き、そして、痛烈な罵声を私に日々浴びせる事となり、
この事は、やむを得ないものの、2年2か月で退社した事の風当たりが強いものでしたし、
私自身も、退社してすぐはとても後悔をしてしまいまして、復職を一度だけ
願い出た事が有りましたがそんな甘い考えは、当然却下されてしまいました。

今振り返っても、2年ちょっとという時期にすぐに辞めないで、少なくとも10年は
頑張って商材開発や輸出入+営業業務を行うべきでした。
率直なところ、そう思っています。今更ですけどね。
というのは、アメリカ発や欧州発で、この商品は売れるな!と直感した商材が
複数ありましたからです。
その一つは、Flattering Budderfly という商材です
この商材には、今でも大変興味があります。数年前から、この商品が
多少形を変えて日本で販売されていますが、私がこの商材を見たときの形態で
販売をしたら、売れると思います。
2年2か月でこの企業を辞めてしまった事、特に、
強い留意があったのに、それを無視して辞めてしまった事で、
大きなものを失いました。それは、社会人としての信用です。


退社後、すぐに、京都市左京区に移り住み、京都を訪れる海外からの観光客らを
相手に、英語通訳術を試そうと取り組み同時に、体を鍛えておりました。
その時に、英字新聞のJapan Times社が、英語ライターなどの社員を募集している旨を、
知りました。早速応募しました。1次試験の筆記試験は合格し、2次試験は、
東京の港区の同社本社で面接試験でした。
港区と言えば、私が異動した昭和貿易株式会社第三事業部東京分室の所在する場所であり、
その事務所の近くにJapan Times社があります。
同社の面接に臨みました。私は英語の力には並々ならぬ自信がありましたので、
勇んでこの面接に英語で臨みましたし、受かると思っておりましたが、
面接官の同社重役の方に言われたことは:・・・

「前の会社を2年ちょっとで退職をした方とかは要りません」ときっぱり
云われてしまいました。あぁ〜世の中の観方は、そういう事なのか?
いくら英語が達者でも、2年ちょっとしか勤務できないような人材を
Japan Times社は取らないという事です。
この言葉に愕然としてしまいました。

その後、京都に戻り、ご縁がありまして、
大阪市港区南港の「株式会社天彦(てんひこ)産業」に入社をすることが
決まりました。同社は、当時から特殊鋼や鋼材の流通商社であります。

当時、鋼材・特殊鋼の需要が激落しており、
特殊鋼や鋼材以外の新規の商品・ビジネス開拓として、人材を探していらっしゃいました。
始業前に、社員一同でランニングをしたり、社内に清掃関係・啓発関係などの
委員会活動があり、とても独特の色を持った企業で、商社という事ですから、
私も興味があり、中途採用されました。
私の任務は、新規商材の開拓とその輸出入業務でした。
1993年の9月20日ごろに入社をしまして、1995年の10月初旬までお仕事を
させて頂きました。
ところが、複数の失敗が重なり、居たたまれなくなり、不義理でしたが
同社を退社せざるを得ませんでした。

実は、最初の「昭和貿易社」も「天彦産業社」も、今年で、創業145年くらいの
(実際には、天彦産業社のほうが、昭和貿易社よりも2年古いのですが)
老舗の企業で、大阪でも最も歴史を有する企業の2つの会社です。
幸いに、この2つの会社は歴史ある商社ですので、各々の企業で
商売に付いて、鍛えてもらいました事は幸いでした。
天彦産業社は、現在、女性を生かす企業としてまた、社員の幸福を第一義にあげて
良い経営のお手本として、高い評価を世間から冠されております。
私が在籍したころに専務職であった方が、社長職となられ
多年にわたり、経営方針を社員の幸福重視に変換し、厳しい経営環境の中で
業績を堅実に上げていらっしゃいます。

1995年10月に天彦産業を去りました私は、しばらく愛知県安城市の
弟の処にやっかいになり、そして、その後、
私は、やむなく故郷の福岡県飯塚市に戻りました。
目的は、福岡県警の試験を受ける為です、
私はこの時30歳です、受験年齢制限ぎりぎりでの試験でした。
ただ、サンボなどをしておりましたので、体力には自信がありまして
体力試験は、私が上位でした。

1995年ですから、春にサリン事件などのオウム事件がありましたし、
そのあたりから、思うところがあり、警察官になるもの1つの選択肢と思っておりました。
柔道もたしなんでいますし。
警察署にも通訳が必要となる現場がありますし、司法通訳者という
存在がいます。それで、1995年の7月の試験に向けて、
実家に帰省し、採用試験を受けました。面接試験まで残りましたが
面接での私の発言内容が良くなかったためか、不合格となりました。
実は、この不合格の連絡にはちょっとした出来事があります。
試験受験の間、結果が決まるまで数か月、私は、隣の市の工場でアルバイトをしておりました。
で、面接試験の結果発表の期日の発表時間の夕方17時に、
関係部署に合否の問い合わせを電話でしました。
最初は、「はい、〇〇番の末次さん、合格おめでとうございます」と言われ
「合格」と言われました。
で、私は自転車で通っていましたのですが、一時間くらい自転車を漕いで
自宅に帰ります。さっきの電話では係の方から合格と明言されたし
ですから、自宅までの帰りの道すがら、警察官になったら、柔道を始め訓練に
頑張って、警察官としてやっていこうなどと思っておりました。

が、自宅に帰ると、母が、「今、警察から電話があってね、
さっき、「合格です」とお伝えしたけれども、こちらの間違いでした」と伝言があり、
さすがに、がっかりしました。

これは本当に参りました。合格と云われてその気に成っていたら、実は
連絡間違いでした、という事ですね

警察でもこんなミスをするのやか?と疑念がわき、
「今後は、決して、公務員にはなるまい」と、決心しました

その後、ご縁があり、小竹町という隣町に
「小竹チューリップ園」という施設(観光的名所)が当時あり、
チューリップを沢山咲かせて、皆さまを楽しませる、という名所があり
そのチューリップ園を経営している会社(土木建築会社)に入り、
オランダからのチューリップ球根の輸入を担当しました。

同時に、個人的に、英語を希望者に教えたり、
翻訳のお仕事を自分で見つけて、合間にしていたりしました。

ここの土木会社の社長さんは、ワンマンな方で、
閉口しておりましたが、私が色々と生意気にも
提案をしたり意見をしたりするので
反りが合わずに、【1998年の6月20日午前中】に、
こちらを退社し、荷物を纏めて、実家に戻り、
同時に、この同じ日の【1998年6月20日の午後】から、

思い切って【末次通訳事務所】という名称を付けて、自身で商売をしていこうと考え、決断し、
通訳翻訳のお仕事を中心に、商売を開始しました。
当時、胸に思ったのは、どんな大企業でも商売でも
最初は、本人が始めたものであり、やっていくうちにきっと形が様になると信じておりました。
物事はこれを開始し、続けていくうちに、専門的になり、様(さま)に成るものと思っていましたので
6月20日の午後から、自分の商売として、末次通訳事務所を立ち上げて、
お仕事を開始しました。最初のご依頼企業は数社ありまして、
アウトドアバッグの輸入販売の企業様と、タイからランを輸入する企業さまでした。

自分で仕事を始めた当初から数年間は、不安で不安で致し方ありませんでした。
というのは、失敗したら、目も当てられない…最悪の場合は、
自決したらいい、自ら命を絶って・・・という気持ちでした。
商売に失敗したら、死ねばよいと思いました。当然、死ねません。だから
背水の陣の心境で、自分で商売を始める事にしました。
それが、1998年6月20日(の午後)の事です。

ですから、6月20日は、
・私が昭和貿易株式会社を退社した日(1992年)であり、
・それから6年後のこの日に、私が「岡重機株式会社」を去り、
               (チューリップ園の経営者)
・そして、自分で商売(末次通訳事務所)を開始した期日であります。

毎年6月20日には、色々な思いが交錯します。

私の父は、公務員で建設省(国土交通省)の
遠賀川工事事務所の職員でした。
私が英語をの仕事を行う事にまるで理解がなくて、
はやくどこかの工業などに就職をしろ!などと顔を合わせるたびに
云ってきます。気持ちは分かりますが、こちとら、
通訳翻訳者として、仕事を展開する、と決めてからは
その仕事に没頭しますので、父とは反りが当然合わず、
難儀しました。だから実家を追い出されました
父の気持ちは私はよくわかります
ですが、徹底して通訳翻訳業として方々にPRをし
仕事を取り、仕事を展開する事をしないと通翻訳の仕事が
維持できなくなると思っておりましたので、父からの圧力には
屈する訳にはいきませんでした。

私が「末次通訳事務所」を立ち上げ、翻訳の作業にいそしむ際、
作業は自宅(家の中で)で行う訳ですね、
それが父には、<賢治が家の中でごろごろしている>、と映ったようです。
実際には、机に向かって、翻訳をしているのですけどね、
家の外で仕事をしないと仕事とは言えないという考えがあったようです。

父も母も私が大学を休み、家出をして休学したり、
勤め先の昭和貿易株式会社を退職したりして、
不信が募る一方であったのでしょう。気持ちはよくわかります。
ただ、私も、背水の陣でこの通翻訳の業務を始めましたので
必死でした。

1998年に開始した末次通訳事務所も、今年2017年6月20日で、
19歳となりました。早いものです。
ここまで続くとは全く思っていなく、今後も、不安があります
いよいよの時は、自決をするだけ、と覚悟をして今後も進んで参ります。

実は、この2017年6月20日は、私は田川郡糸田町の国際交流協会さまからのご依頼で
国際交流に関して講演をしました。

この申し入れを受けました時、私は、とっても深く感慨に耽りました。
最初の就職先の昭和貿易社を退社し、また小竹のチューリップ園の会社も去り、
同時に、自分の商売を不安の中で始めたその期日の19年後に
小さいながらも講演する機会を頂きまして、大変にうれしゅうございました。

更に、貿易英語セミナー講師や英語研修の講師で企業や団体等に
先々将来、招かれたりするようになるとは、創業当時の6月20日には
夢にも思っていませんでした。

いよいよ来年の2018年6月20日で、二十歳の誕生日を、私の商売は
迎えます。きちっと迎える事が出来ますように、
向こう一年も頑張って参りたく存じます:

この配信の後は、今年の6月20日の講演の内容をご紹介します

末次通訳事務所・末次賢治拝
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